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2007年02月16日

モンゴル

いやもちろんモンゴルに行くとか行ったとかいう話ではなくて、友人に誘われ、大塚にある「チンギス・ハン」という(またベタな名前の)モンゴル料理屋でモンゴル体験をして参りました。

モンゴル体験といっても、まあ、モンゴルの民族衣装を選び(写真左)、着て(中)、モンゴル料理を堪能する(右)というものだが、ビルの地下にとつぜん巨大なゲルがあって、その中で食事をするという本格?スタイルだ。

#写真は後日掲載予定。

モンゴル衣装は、みな不思議に似合う。やはり我ら皆モンゴロイドだからだろうか(モンゴロイドは我々白人より少し幸せだ、と歌ったのはDEVOだったかな?)。

そして毎日恒例のようだが、(多分スーホという名の)経営者のモンゴル男が「マンデー・イラーリ・マンデ・イラリー」(ラは巻き舌)と歌い始めてモンゴル式ウォッカ一気呑み強要―「マナイデイレーレ」というらしい―を開始したり、少し体格のよい男性客にモンゴル相撲の衣装を着せて腕相撲をやらせたりなど、場を盛り上げる。これは、自分に白羽の矢が当たらない限りではあるが、なかなか面白い。

肝心のモンゴル料理だが、店のホームページによれば「現地の味により近いものに努めて」いるとのことだが、確かに素朴な調理法の、塩とクセのない油が中心の味付けで、美味い上にあまり飽きない。家の近所にあったら月に何回か行ってもよいなあ。やはり我ら皆モンゴロイドだからだろうか。羊焼いただけみたいなのやチャンスンマハ(羊の骨付きまるごと塩茹で)も美味かったし、内モンゴル風もやし大根サラダというのがとりわけ印象に残った。

その他料理はセロリ春雨炒め(豚肉)、モンゴル岩塩焼きめし、餃子、肉じゃがのようなもの、サラダ各種などなど、また酒はビール、焼酎、葡萄酒、モンゴルウォッカ、ミルク酒(ウォッカとミルク酒は度数が選べるが呑み方は基本的にロックのみのようだ)などが、お一人様4500円で時間無制限食べ放題、呑み放題であった。ミルク酒は、16度のが白濁しててアルコール入りカルピスのような爽やかな酸味で呑みやすく、日本の濁り酒や韓国のマツコリよりクセがないと思った。そして38度になると無色透明になり、また味わいが変わって面白い。

#ちなみに、食べ物はメニューがなく次々に出てくるものの中から「これお代わり」と追加していくのだが、店のホームページに詳しいメニューがあったので、あらかじめ食べたいものをメモしていくとよいかもしれない。頼まないと出て来ないものもあるようだ。

で、さてこの日は、3月20日に来日公演(代官山「晴れたら空に豆まいて」にて)を行うという馬頭琴のY.ネルグイ(リアル遊牧民)、ドンブラ(カザフ伝統楽器)のL.クグルシン(現地では医者をしているそうだ)が遊びに来ており、各席を回って演奏してくれる。馬頭琴とドンブラのデュオもあったが、これは現地でも非常に珍しいとの由。大変ラッキーだ。

間近で観た馬頭琴のパフォーマンスは、珍しいしなかなか楽しく(チップはずみました)、デジタルカメラ持ってたので、ビデオ撮ってみました↓

http://www.aokiosamu.jp/movie/mongol070216.mov

(Windowsで再生できるか未検証)

ドンブラはちょっと音の小さい楽器で、一応ビデオには収めたが周囲の話し声のほうが大きかった。残念。

「チンギス・ハン」は、モンゴル料理を気軽に呑み喰いに行く、という感じではないが(もちろん衣装着なくてもいいんだけど)、中人数~大人数で騒ぎながら会食するには楽しいと思いました。

2007年02月15日

熊本

2月14日午後2時羽田着。飛行機は4時ちょっと前なので、時間潰しにサンドイッチつまんでビール三杯。4000円ちょっと取られる。羽田はぼったくりバーか?

フライト2時間、バス1時間でJR熊本駅前のホテルに到着。JR熊本駅前は、実は中心街ではないことに、到着してから気付く。駅前は真っ暗でとても寂しい。

かつてギルモア・ファー・イーストというバンドで一緒に活動していた多久さん(ギター。現熊本在住)と5年振りくらいで会う(元気そうだったよ>hisahiko君、oga*さん、タケノウチ君)。

西銀座通りのほうまで連れてってもらい、基本どおり馬尽くし(赤身、タテガミ、霜降りはもちろんレバ刺し、煮込みなども)、一文字ぐるぐる、カラシ蓮根などの名物で、ふたりで焼酎一本空ける。音楽活動を共にした仲間と音楽の話をするのは久し振りだったので、非常に気持ちよく呑めてうれしかった。今度は東京で会いましょう。

翌15日は、まず某高専、続いて某大学の教授や助教授を取材。それから某官庁を取材。二日酔いの取材はつらい。が、学校の先生の、社会性があるようでないようである感じや地に足が着いているのに浮世離れしたような感じは、話聞いていて非常に面白い。また、学校で教える以外のボランティア活動(学外講座や産官学のコーディネーションなど)の量と内容の充実振りの凄まじさに驚く。

ちなみに移動は律儀にバス電車で、ほとんど熊本市内だけだったがはじめての者には交通網がわかりにくく、レンタカー借りて回れば楽なのになあと思ったが、大元の発注者が某省庁なので、経費の精算は非常にうるさいそうだ(正当な理由なくタクシーなどを使うと認められない)。そうなのかー、勉強になった。

予定より2時間ほど早い飛行機で帰京。帰りの飛行機の中で読んだ熊本日日新聞に、今日の取材の裏付けとなる記事が偶然載っていてラッキー。夜の便だし今朝の朝刊だから、もう捨てるばかりだろうと失敬することにする。

8時前に羽田着。小腹空いたし休憩してから帰ろうと、羽田でアーティチョークとオリーブのピザ、生野菜、赤葡萄酒ハーフボトルでまた4000円取られる。学習能力ないぞ。無駄なところでセコい贅沢するクセがついているなあ。

まあでも、流れ者(って差別語?)のような生活も一段落だ(次は来月の奈良一週間)。あとは月末まで半月弱、楽しいテープ起こしと原稿書き・・・(30pくらいかな)。

2007年02月09日

岩手

今日は取材で岩手日帰り。

盛岡からいわて銀河鉄道で、石川啄木の故郷渋民村のひとつ手前の、滝沢というところにある岩手県立大学の教授を取材。

昨日宇都宮行ったので、二日続けて東北新幹線乗った(新幹線乗るのは三日連続)。子供だったらすげー嬉しいはずなんだが。

はじめてだし日帰りなので岩手がどうなのかはよくわからないが(雪は積もってたので今年はじめて踏んでみたのは嬉しい)、帰りの新幹線の中で、取材に同行の編集者(S泳社のS水さん)が薦めてくれた地酒が美味くて、四合瓶二本空いた。乗り換えなしで三時間くらい新幹線というのも楽しいなあ。

2007年02月07日

熊野旅行記

2月3日〜7日、和歌山、熊野旅行の模様をmixiの日記に書いたのだが、それを加筆訂正の上、まとめました。写真も若干増補。

▼2月3日(熊野・新宮)

昨日の日記(註)でブラジルに行きたいなどとほざいておきながら、その舌の根も乾かぬうちに今日は熊野・新宮に来ております。

(註)mixiに書いた日記のこと。

まあ、もともと友人から誘われ予定していた旅ではあるが、せっかくだから熊野詣でをしておこうと勢い余って、友人から誘われた旅程より二日早く来た次第。

早く出たかったので昨晩から眠らず支度をして、朝5時に家を出て6時の新幹線で名古屋に7時過ぎ着。8時過ぎの特急で3時間で新宮着。意外に電車乗ってる時間長かったが、少し寝られて助かった。

で、新宮着いて名物だというさんま寿司を食べ(残念ながら節分のため駅前の徐福寿司が通常営業しておらず、仕方なく駅の売店にて)、そのままやおら地図も見ずに神倉神社へ向かう。ここは意外とすんなり着けた。隣に出雲大社がある

ちなみに、駅からちょっといったところに、「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会による碑があって、そうか新宮は大逆事件のひとつの大きな舞台だったのだな、と思い出す。あと、「コンビニトーマス」ってのがあったので、一応写真を押さえておく。

それにしても、御神体のゴトビキ岩へと続く、源頼朝が寄進したとされている石段はすごい。538段という段数もさることながら、とりわけ途中の火神社までの急さ、また各段の幅の狭さ(足の縦幅よりも短い段が少なくない)は予想以上だった(下記の写真を参照していただきたい)。

石段の昇り口。長さはこの写真に写っている範囲の5〜6倍ほどか
石段その1
石段その2
石段その3
社殿、御神体への入り口
昇り切った社殿付近からの眺め。新宮市が熊野灘のほうまで一望できる
社殿と、御神体のゴトビキ岩その2
石段下り

何を隠そうこの石段を頂上のゴトビキ岩の下から松明を担いで駆け下りるという祭り(御燈祭。2月6日)に今回参加することになっているのだが、大丈夫かなー。まあでも、旅行の荷物全部担いだままで上り下りできたから大丈夫か。しかし祭りも祭りだが、この佇まいだけでも、日本で十指に入る過激な神社だと思う(そんなに巡ったわけではないけどね)。

その後は熊野速玉大社や境内にある八咫烏神社など、そして阿須賀神社(社殿のうしろに見えるのが蓬莱山)と熊野古道を海のほうに歩き、ついでに徐福公園徐福の墓徐福像不老の池七塚の碑千台烏薬の木を見物して、さらに海のほうに歩いて浜王子を見物と定石通り観光してからホテル着。ホテルの部屋は、シングル4500円と激安の割に狭くはないけれど、頭痛くなるほど趣味が悪い! サンシャインホテルという名前はよかったのだがなー。フロントの人は親切でした。

それはまあともかく、途中案の定道に迷い(地図見てないから)、結果的にはいろいろな発見があった。天理教のでかい寺、念法眞教のでかい寺、創価学会の会館などは、熊野=古くからの信仰の地という頭があったので、忽然と現れたという錯覚もあり、ちょっとぎょっとした。また新宮の蓬莱という町の家々には、「寄付お断り」の貼り紙が多く見られ、なにかの暗闘があることを感じさせる。あと、王子製紙記念公園というのがあって、中にお狐様が奉られていたが、あとで調べても背景はわからないかった。まあ、めちゃくちゃに歩いてみた甲斐はあった。

さて今日の夜は、宿の近くの「くし一」という居酒屋に入ってみた。熱燗を頼んだらイカの炙ったのを入れてくれて、これがうまかったなー。地元の人に新宮弁攻めに会っていろいろお話させていただいたが、半分以上わからなかった。でも、なかなか耳に心地の良い訛りだと思うな。料理はまあふつうだが、マグロを炙った叩きがちょっと珍しくて、クジラが美味でした。

ちなみに地元の人の話によると、神倉神社の石段は、地元の高校の野球部が練習の際に利用していて、その連中はぴょんぴょんとあの石段を飛び降りて来るそうです。すごい。

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明日は(多分)朝本宮大社までバスで出て、そこから小雲取という峠を越えて小口というところで一泊。その翌日はもうひとつのメイン・イベントである大雲取越え(山中を6〜7時間歩く)(註)で、その後那智大社と大滝を見物して新宮に戻る予定。

(註)後述するように、大雲取越は、思わぬアクシデントにより中止となった。

大雲取ではダル(ヒダル神)に取り憑かれたり(かの南方熊楠も取り憑かれたことがあるそうだ)、死んだ親族や友人が自分の前をふらふら歩いたりすることがあるという。俗にいう神霊スポット的なものに興味を持っている者ではないが、ここはいうまでもなく歴史も格も違うし、ヒダル神などは妖怪なわけだから、とても楽しみである。ほんとに憑かれたらおなかが空いて死んじゃうけどね(憑かれたと思ったらすぐになにか食べれば大丈夫)。

▼2月4日(熊野本宮大社・小雲取越)

寝坊して、午前9時過ぎに新宮駅着。まあ寝坊を見越して、今日明日の予定を那智〜大雲取越〜小雲取越〜本宮から、本宮〜小雲取越〜大雲取越〜那智と逆順に変更していたわけだが、この変更が結果的には思わぬ大正解であった。これは伏線。

さて新宮〜本宮は特急バスで移動。特急バスのクセして遠回りで本宮に向かう路線なので、道中、仙人風呂や小栗判官で有名な湯の峯なども通ったのが、バス内から眺めただけだが、予想してなかったので嬉しい。五来重「熊野詣」など熊野詣に関する本を読んでいて、小栗判官の話を思い出したのも、今回熊野古道を歩いてみようと思ったきっかけのひとつである。

昼前に本宮大社に到着してお参り。それにしても、昨日の速玉大社もそうだが、いろんな神様が奉られているので、賽銭で小銭があっという間になくなる。

速玉大社と同じく、境内はそんなに広いわけではないので、横一列に並ぶ証誠殿(家津美子大神)、第一殿(熊野夫須美神・事解之男神)、第二殿(速玉之男神・伊邪那岐大神)、第四殿(天照大神)と、明治22年の大洪水以後に移築された上四社をざっとお参りし、宝物殿を見物(元禄11年に実際に牛玉宝印を使って書かれた起請文や、牛玉宝印の版木、旧大社が熊野川の洪水で流される前に音無川にかかっていた高橋という橋に使われていた擬宝珠などが面白かった)。また昨日の速玉大社に引き続き、キュートな烏文字が書かれた牛玉宝印を入手して、境内をあとにし、帰りは裏道を通って山を降りる。

八咫烏の本場だけあって、八咫烏グッズ(八咫烏扇800円は買えばよかったなー)のほか、八咫烏を店名にした食事処も多い(新宮にも、八咫烏警備保障という会社があったけどね)。

適当な食堂で昼にしたあと、旧社殿のあった大斎原(おおゆなばら)を見物。やたらバカでっかい鳥居があって笑う。とりみきの「石神伝説」の白鳥君が上に立っていそうな大鳥居である。近寄ってみると、喩えが古いが大魔神とかジャイアントロボのような佇まいだ。平成12年竣工というから、まだ新しい(高さ34m)。

鳥居その1
鳥居その2
鳥居その3
鳥居その4

大斎原の裏手にはだだっ広い熊野川の河原があって、水面を眺めたり靴履いたままじゃぶじゃぶ川に入ってみたりして、今は熊野川はダムで水量をコントロールされているが、こいつらが旧本宮大社を押し流したんだなあとしばし感慨にふけってみた。

高橋がかかっていた音無川には、現在は水が流れていないようだ。

大斎原をあとにしてしばらく国道を下り、下地橋を越えたところに、小雲取越の入り口はあった。

無料でお使いください、という杖が置かれていたが、まあ使うまでもあるまいと思い遠慮する。でも途中、急な登りなどで杖があったら楽だなあという箇所はいくつかあったので、もし今後歩く方がいる場合は、面倒臭がらずに杖を利用することをお薦めする。

で、小雲取越は、いきなり急な石段に始まり、最初は民家の軒下を通らせてもらうような塩梅だが、すぐに山中に分け入り、人気などなくなってしまう。あとで考えればそんなにヘビーな山道ではないが、はじめての道で様子がわからないから、登り下りがぐわっと続くようなところなどは、やはり少し不安を感じたりする。

それと、熊は大丈夫とは朝乗ったバスの運転手に聞いてはいたが、ときどき柔らかい土に獣の爪痕があったり、道の真ん中に多分獣の仕業と思われる真っ黒い糞が落ちてたりして(赤葡萄酒呑み過ぎた人間の糞ではないよね?)、それなりに緊張を誘う。

山に入ってからしばらくして、どこかで人の声がするような気がした。これは熊野古道を歩いたルポなどでも書かれていて、それを読んだからという所為もあるだろうし、冷静に考えれば自分の着ている服の衣擦れの音や草木が風に靡く音、せせらぎの音、同じ山中の遠くにいる人の会話などが山中独特の音響によってそんな風に聴こえる、ということだと思うが、確かに霊場に踏み込んだような気分にはなる。

そしてそういう気分は、上り下りをひたすら歩き続けて心拍数が上がり血流が勢いを増してなにか脳内物質が分泌されていくうちに嵩じていくわけで、ゆっくり歩く自分の背後にスタスタと追いついて来る足音を感じたり、遠くに見たこともない生き物が動くのを見たような気がときどきするようになる。なるべく理性的であろうと、いちいち驚いたりせずなにかの錯覚だろうと考えるわけだが、それでも山の怖さは少しずつ募っていく。面白い。

そういえば、その少し前くらいに、小口から歩いて来たのだろうご老人の一団とすれ違ったが、山歩きの礼儀として(未だに気恥ずかしのだが)「こんにちは」と声をかけたものの、何人かのご老人はしばらく私のことが目に入らない様子で、ぶつかりそうになるまで近づいてはじめて驚いて道を空けてくれた。私が幽霊妖怪の類いか。

そんな中で少し驚いたのが、視界がとつぜん、少し青みを帯びたときだ。山に入って小一時間して、松畑茶屋跡に差し掛かる手前で下を向いたら、自分の履いているデニムの膝下が目に入りこんなに青かったっけ? と思ったら、地面に落ちている小石が一様に青みを帯びていたのだ。またしばらく歩くとなんでもなくなったが、この現象は原因不明。

その松畑茶屋跡着が午後2時35分。山に入ったのが午後1時40分だから一時間弱、ガイドブックによれば一時間と15分が標準所要時間だそうだから、いいペースである。

しかしこの松畑茶屋跡も、天気はいいはずなのにそこだけやたら陰湿な感じで、地面に丸い大きな穴がいくつも開いていたりして不気味である。少し越えたところに休憩所があったのでちょっと休むが、水を一口飲んで早々に立ち去る。

そのまま30分ほど割と急な登り坂を登ると、百間ぐらに出ていきなり眺望が開ける。如法山という山の中腹に当たる場所だそうだが、熊野三千六百峰(ってまた大げさな)と呼ばれた熊野山々を眼下に臨む眺めに、しばしバカになる。こういう風景は、写真に撮るとつまらないのだが、それでも崖っぷちに身を乗り出したりして、なるべく見た通りの気分を収められるよう努めてみた。

百間ぐらに出る手前
上ってきた方向を向いたところ
百間ぐらの地蔵と眺望
熊野三千六百峰
百間ぐらに佇む私

百間ぐらを降りるとしばらく、道中で往き倒れた巡礼者の魂を弔うといわれている賽の河原地蔵や、そこに宿泊した巡礼者を釣り天井で殺して金品を奪ったという伝説が残る石堂茶屋跡と、不気味スポットが続く。石堂茶屋跡も、やはりとつぜん暗くじめじめした感じになる場所である。そして「釣り天井という話は史実ではなく悪意のある噂」という内容の説明書きの文字がところどころ剥がれているのもまた不気味である(他の場所の説明書きはそんなことはないので余計に)。

石堂茶屋跡に着いたのが午後3時45分で、次の休憩所の桜茶屋跡着が午後4時30分。ここまでの標準所用時間は3時間30分だそうだから、40分くらい速い計算だ。だんだん安心してくる。しかもあとは一時間強、下りだけである。

が、しかし! ほぼ山を降りる直前の琴平さん登り口(ここも今度登ってみたいなあ)の付近で、さっきまでザク、ザク、ザク、ザクと軽快だった足下からパコンストトン、パコンストトンという間抜けな音がし始めて、嫌な予感を感じながら右足を持ち上げてみると、案の定靴底が剥がれかかっている! 冬の山の日の暮れは早い。特に麓近くは木々や山自体がわずかな日光をまったく覆ってしまうから、午後5時を待たずに急激に暗くなる。もうすぐ人里だから大丈夫と思いつつ、靴底を庇うように歩くのでどうしても歩みは遅くなり、木々の間に見下ろせる小口の人里もちょっと道が曲がると途端に見えなくなるしで、下山口までの距離もわからず、いささか途方に暮れたりする。

と、視界が開け、この石段を降りれば人里だあと思うや野犬に吠えかけられ、慌てて石段を駆け下り小和瀬橋という橋を渡り切ったところで、ホーキンス博士ご自慢のエアー・クッションド・ソールは見事剥落。

剥がれた靴底を手に持った間抜けな格好で、さらに県道を1Kmほど歩いて、夕方6時過ぎ、なんとか今晩の宿「民宿百福」に無事到着した。

もうすっかり暗くなっていたので、峠を越えて来ることを前もって知らせておいた宿のご亭主も心配顔だったが、剥がれた靴底を見せたら大笑いしてくれた。笑いが取れて何よりである。「民宿百福」はほんとに昔ながらの民宿で、人の住む古い家のにおいがする(最近のマンションなどではあまりしないにおいだ)。民宿なんて子供の頃以来だから新鮮だったし、素朴な晩ご飯も嬉しい。客もこの夜は私一人なので、のんびりできた。

宿のご亭主とも協議の結果、この靴では無理だろうと明日の大雲取越(今日の小雲取越よりももっと険しく長い)はすっぱり諦め、クルマで新宮まで送ってもらうことにした(ありがたい)。靴底は接着してもらったが、よく見ると左足の踵の上のところも破れている。しかし大雲取越はだいたい7〜8時間かかるそうだから、今日予定通り大雲取越を歩いていたら、道半ばで片方の靴底をなくしていたわけだ。予定変更はラッキーだったかもしらん。

ちなみに、この日泊まった「民宿百福」のある小口というところは、川釣りが盛んだそうだ(そこを起点にもう少し上流かもしれない)。宿のご亭主が、釣りの案内もするといっていた。夏はかなりいい鮎も釣れるそうだ。

▼2月5日(熊野那智大社、青岸渡寺、那智高原、飛瀧神社)

宿のご亭主に、クルマで新宮駅まで送ってもらう。途中、林道から見える鼻白の滝(参考Webページ)を見せてもらったり、語り部(熊野山々の案内人)の資格も持つご亭主から、山の話をいろいろ伺う。

私が抱いたいくつかの疑問(ダルや山中で聴こえる人の声など)については、その現象が起因するところは概ね私の予想通りだった。京極堂ではないが、世の中に不思議なことなどなにもないということか。たとえばダル(ヒダル神)については「アミノ酸飲料の一本でも持っていれば大丈夫」ということだし私もそう考えるが、しかし、その現場にいる間は、不思議はやはり不思議であるし、畏れは畏れである。その辺が、山や信仰や怪異の面白さではないかと思った。

そういえば、今回諦めた大雲取越の、舟見峠(遥か熊野灘までを見通せるらしい)から色川辻へと下る坂道は「亡者の出会い」と呼ばれていて、死んだはずの肉親や知人が白装束で現れるという話だが、今回小雲取越の急な上り坂を越えようとしていて、景気付けになにか歌を思い出そうとしたところ、若死にした友人が某女性歌手のシングルのために書いた歌をゆくりなくも思い出して、一瞬ぶわっと涙が出た。こういう思い出しに対する過剰反応もやはり山歩きのもたらす精神作用のひとつだと思うが、なるほど「亡者の出会い」とはこういうことかもしれない、と、やはり勝手に納得してみた。

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さて、新宮駅からバスで那智駅。まずはJRきのくに線の線路を潜る地下道を抜けて那智の海岸に出て、この辺からみんな流されたのかあと思いを馳せてみる。

みんなというのは、祐真上人や金光坊(こんこぶ)などの補陀洛山寺(ふだらくさんじ)の住僧たちや平維盛のことで、流されたのかあというのは屋形船に乗って釘で密閉されて那智の海岸から補陀洛(印度の南海岸にある山とされる。中国・揚子江の河口の舟山列島という説もある)に流されたということである。平維盛は自分で舟を漕いでいったのだったか(平家物語)。いわゆる「捨て身の行」である(ほかに那智の大滝に飛び込んだり、生きながら穴に埋められる入定などの捨て身の行がある)。

五来重の「熊野詣」によれば、この補陀洛渡海は「水葬と入水往生の二面を持つ宗教的実習」であって、また「熊野年代記」では19人(註)の補陀洛渡海者を記す中で「存命」と記録されているのは祐尊敬上人だけだから「他は臨終以前という体裁によそおった水葬としてさしつかえない」という。それは正しいかもしれないが、金光坊については「途中で死が怖くなり、船板を割って逃げ出した。しかし、船に押し戻され、海底に沈められた」(吉田智彦「熊野古道巡礼」)という有名な話もある。事実を推測するより、いにしえの信仰にまとわりついている狂気のようなものを、那智の海に目を浸しながら、素直に考えてみた。

(註)補陀洛山寺にあった補陀洛渡海記念碑には、25人の渡海者の名前が記されている。

那智の浜からまた地下道を抜けて、浜の宮王子と、その補陀洛山寺を見物。駅から3分という立地なのに、浜の宮王子の裏手には鬱蒼とした森が聳えている

ちなみに那智大社に詣でる際には、この浜の宮王子で潮垢離をし、心身を清めたそうだが、まあ一応那智の海岸に出ておいたので、それでご勘弁いただくことにした。

補陀洛山寺には、南紀州新聞社主(寺本静生)が平成5年に復元したという渡海船が飾られている。その様式は、「入母屋作りの帆船で、四方に発心門、修行門、菩提門、涅槃門の殯(モガリ)の鳥居がある。」と説明されている(殯とは、貴人の本葬をする前に、仮に遺体を納めて祭ること)。「熊野那智参詣曼荼羅」の右下に描かれている渡海船も(微妙に異なる部分もあるが)その様式だ。

また、再び五来重「熊野詣」によれば、「鳥居の間に忌垣をまわすのが極めて特徴的」だそうで、「四方の忌垣も一辺十一、二本が見えるので「四十九院」という殯の忌垣であることもまちがいない」つまり「紛れもなく墓の構造をしめして」いるので、先にも紹介したとおり「どうかんがえても補陀洛渡海が水葬であることをものがたるのである」と結論しているというわけだ。ふむふむなるほど。

補陀洛山寺をあとにして、少し県道の車道を登る。この車道沿いの川で、普通の若奥さん風の人が洗濯していて軽いカルチャーショックを覚えたが、まあそれはあれとして、曼荼羅の道石碑のところを右折して熊野古道へ。しばらくは民家の間を抜けるおだやか舗装路なので安心していたが、小川にかかる石橋を渡って案内どおりに進むと、あっという間に森の中に吸い込まれる

あとはだいたいこんな感じだったり、こんな感じだったり。ふと気が付くと、周囲が竹林に変わっていたりして、それなりにばかされてやしないか不安になったりもする。

尼将軍(源頼朝の正室、北条政子のこと)供養塔(荷坂峠)で休憩。この供養塔は、実家の北条氏によって殺された実子(頼家、實朝)の供養のために、政子が二回目の熊野詣の最中の建保6年(1218年)に建立したそうだ。以来この土地の人は、代々この供養塔を守り続けているという。

ここからふだらく霊園という墓地(樹齢800年の柿の木などがある)を下ると、またしばらく人里を歩く。市野々王子の辺りでまた靴底が怪しくなったので、面倒くさくなって自分でバリっと剥がした。左右の靴底の高さが違う状況になったわけだが、バコバコいう靴底を気にしながら歩くよりはましである。

そして大門坂入り口夫婦杉鏡石、南方熊楠が二年間滞在したという大阪屋跡などの見物ポイントもあるが、ここからは基本的にひたすら坂道を上る

多富気王子跡など眺めながら、まだ上る

やっと着いたような感じがするが・・・

まだ上る

やっと那智大社が見えてくるまだ階段あるけど)。大門坂に入ってから1.5Kmもなく、那智駅からの行程の中では1/4もないのだが、この坂一番きつかったかもしらん。

で、ようやく! 那智大社境内。これで熊野詣コンプリートである。

お参りして神宝館覗き、「熊野那智参詣曼荼羅」のオリジナルを見て感動。そしてコピー(3000円)を入手できた。もう少し値段高くてよいからオリジナルと同じサイズにしてもらいたいとは思うが(オリジナルの1/4だったかな)、嬉しいことは嬉しい。三社分の牛王も併せて、額装して部屋に飾る予定だ。

那智大社をざっと見物したのち、隣の青岸渡寺へ。

青岸渡寺は、西国三十三ヶ所巡りの第一番札所である。ん? ということは、西国三十三ヶ所巡りの扉を、図らずも開いてしまったということか。まあそれについては、あとでゆっくり考えたい。

で、さらにいえば天正18年(1590年)建立という、熊野地方では最も古い建造物ということであるが、正直、この時点で体力も精神力もかなり限界に近付いていて(その原因のひとつは、9.1Kg—家に帰ってから測ってわかった—という馬鹿な荷物を背負ったまま山を歩き回っていたことなのだが)、情報処理能力的にもオーバーフロー気味だったので、あまりなにかを考えたり感じている余裕がなかった。青岸渡寺では宿坊(尊勝院)に泊めていただけるそうなので、手続きをどうすればよいのかは知らないが、今度ここでゆっくりしてみるということでトライしてみたい。ここで一泊して、大雲取越に向かうのもいいかもしれない。

青岸渡寺の裏手にある七福神を奉った社を見物してふと見ると、茶屋があったのでうどん喰う。意外に美味い。

と、途端に体力が、RPGの画面のインジケーターがぐーんと伸びるように回復し、と、茶屋の横に「熊野道」という表示のある石段があって、結局、吸い寄せられるように上る。

体力の回復を感じたとはいえ、筋肉(特に太股と尻。そして肩と背中と胸)は悲鳴を上げているし、気持ちはさっさと滝見て帰りたいのだが、「石段を見ると上らずにはいられなくなる」という後催眠にでもかかったような具合だ。

というのは半分冗談で、狩場刑部左衛門(かりばのおさべざえもん)という侍が一踏鞴(ひとつたたら)を退治したのがこの石段の上にある那智高原でその記念碑があると記憶していたし、今回は諦めた大雲取越の出入り口にもつながっているので、せっかく体力回復したからそこまでは上っておこうと思った次第である。

で、上る。左に行くと女人高野と呼ばれる妙法山阿弥陀寺に続く分かれ道を右に上り上り、ようやく那智高原に出る。

が、遠くにアスレチックジムのような施設があるだけで、一踏鞴関連はなにもなく、だだっ広くて渉猟するのは大変そうだし、とつぜん強い風が吹き始めたりもするので、ほうほうの体、という感じですぐに引き返した。石段を下りて戻る途中、那智の大滝の二の滝、三の滝への入り口を見つけるが、きりがないのでこれも次の機会だ。

茶屋のところまで下りて来て、かくかくしかじかと話をすると、ああそれは色川ですね、とあっさりいわれる。大雲取越の、先に書いた亡者の出会いのちょっと先だ。徒労だった。

もう滝だ滝だと、三重の塔は横目でやり過ごして飛瀧神社へ。すごいなあ。300円払うと滝壺近くまで行けるので、また石段上るはめになったが行ってみた

この那智の大滝、一説によると大股開いた女の股間、という捉え方もあるそうで(その伝でいけば神倉神社のゴトビキ岩は巨大なペニスになるなー)、まあ確かにこんな辺りから見るとそうも見える

今回そういう話を聞いたというだけで、きちんと裏を取ったりしたわけではないし、背景になにがあるのかもわからないが、ただ、民俗信仰と性の結びつきはかなり直接的かつ強力なことは珍しくないから、この説も否定はしない。背景がきちんとあれば面白い説とも思う。

で、さすがに抜け殻のようになってバスで那智駅まで下る(もう歩けねえ)。那智駅は海沿いの無人駅だが、いい具合にがらんとした待合室が南国っぽくて素敵だ。今回の旅の大きな目的のひとつ終えたような心持ちで電車を待つ。

新宮までは電車。新宮駅からタクシーで、今後の宿に到着。同行の友人一行と落合い、荷解きして、履いてきた靴はここで諦めて宿近在のスーパーに売っていたナイキの懐かしいナイロンコルテッツを購入し履き替え、適当な寿司屋で晩飯。

ところがここの若大将が、家業を継ぐ前に、同行の友人の仲間の弟子だったことが判明。同行の友人の本拠地である水戸で、アパレル関係の修行をしていたそうだ。その偶然に寿司や刺身やクジラをつまんでいた一同バカになる。実際、そんなループがまだいくつか起こることになるのだが—

▼2月6日(湯の峰・つぼ湯、本宮大社、信仰の誕生、鹿六、御燈祭)

まず朝、同行の友人の会社の右腕氏が運転するクルマで湯の峰へ連れて行ってもらう。この右腕氏には、このあと大変世話になった。水戸の人だが、東京に来た折にはぜひ手厚くお返ししたいと思う。

で、かの小栗判官が蘇ったというつぼ湯入る

先に書いた通り、熊野古道を歩こうと思ったきっかけのひとつが小栗判官の話を思い出したからだが、特にそんな説明をしたわけでもないのに、ここに連れて来てもらえたのは嬉しい偶然であった。

ちなみに小栗判官について、私は五来重「熊野詣」を熊野に来る前に斜め読みした所為で「癩に冒されて巡礼放浪〜偶然照手姫に導かれ熊野で復活」と勘違いしてしまったが、この地に来て由来書きなどを読み、話としては毒を盛られたんだったなあと再確認する。もっとも、癩に限らずかつて治療法もわからず感染の恐れが必要以上に抱かれていた病にかかった者は、熊野への巡礼を強要されたそうだから、小栗判官の話が成立する背景にはそういう事実もあったのだろう。

いや、でも、本来はどちらだったかなあ。あやふやだ。それ以前に、話全体も未だに覚えられないのだが。照手姫の車塚も見逃したなあ。まあそのうち、大阪から小栗街道(紀伊路)も辿ってみると思うので、そのときまでに勉強しておこう。

つぼ湯を出て、つぼ湯横の茶屋で酒呑んだあと(「八咫烏ビール」を呑むの忘れた)、今回二回めの本宮大社。

鳥居のところで餅屋に声をかけられる。今日御燈祭に参加するのだ、という話をすると、そうか俺も速玉の人間だ、縁起物だから餅を喰っていけ、と餅を振る舞われる。そのまま押し売られるのかなあと思ったら、新宮に戻ったらぜひ「鹿六」で鰻を喰え、というばかりで、特に押し売られなかった。なお「鹿六」は創業90年以上という、割と全国的に有名な新宮の名店である。私も実は、訪れる前に調べはつけていた。

本宮大社では、同行の友人がお祓いしてもらうというので、便乗して後ろで見学させてもらう。祝詞の合間の太鼓がなかなかのものだったが、低頭を命じられていたのでどんなバチさばきなのかを見られなかったのは残念(その直後に別の人がお祓いしてもらってたので、そのときに外から見ることができた)。

参拝を済ませて山を降りる途中、本宮大社の石段のところに、何かの祈願のために小さい幟を立てるコーナーがあって、そこに木槌が置いてある。同行の友人が何を思ったか、とつぜんその木槌を取り上げ、木槌が置いてあった硬質ビニールの台をバン、バン、バン、バン、バンと叩き、柏手を打つ。

その様子を見た参拝客がなにをしているのかと尋ねると、友人は「こうすると幸せが訪れると聞きました」という。そんなバカな、と笑おうとしていると、善良そうな参拝客たちが争って木槌をバン、バン、バン、バン、バンと振り回し始めたので、とりあえずバカ笑いを悟られないように石段を駆け下りて去る。友人いわく、「信仰の誕生を見ただろう」と胸を張っていた(笑)。

で、本宮大社をあとにしようとすると、まださっきの餅屋がいたので、同行の友人が悪いと思ったのかひと折買おうとすると、いやこれ日持ちしないから、という。?。その上、気が向いたらあそこで売っているよ、とかいう。売る気があるのだろうか、それとも親切なのだろうか。変な餅屋であった。

変な餅屋ではあるが、「鹿六」には興味をそそられたので、ホテルにいったん戻って危なそうな荷物(カメラ、時計、携帯電話など)を置いて祭の支度をしてから、「鹿六」で昼。確かに評判通りだ。この日は祭で気もそぞろでゆっくり味わえなかったが、少し甘口のタレは、東京の鰻に慣れた舌にもおいしい。またゆっくり来たいなあ。

とういわけで、特に山場のない話になったが、このあと新宮の商工会議所で祭装束に着替え、ついに御燈祭である。どきどき。

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御燈祭という祭は、松明を担いで新宮・神倉神社の御神体であるゴトビキ岩のところまで登り、松明に火が点いたところで(夜8時頃)松明をかざして石段を下まで駆け下りるという、非常にシンプルな祭である(参考Webページ)。

だが、神倉神社の石段を登る前に、白装束に着替え、松明に願い事を書き、かまぼこやシラス、豆腐やにぎり飯などの白いものを食べながら酒を呑み、街に出てすれ違う参加者と松明をぶつけ合って「たのむでー」と声を掛け合い、かつ振舞い酒を振舞われながら街を練り歩く、というところがミソだ。なにも考えなければ、この時点でかなりテンションは上がり、ゴトビキ岩に辿り着く頃にはメーターが振り切れる格好になる。

逆にいえば、この街を練り歩く時間は、今年の祭にどんな具合に参加するのかを自分で規定しテンションをコントロールするための時間だともいえるだろう。この祭をケンカ祭と捉えるならば、ここでテンションをぐっと上げて勢い付けするわけだし、祭の雰囲気をじっくり味わうならそのつもりで街を練り歩けばよいわけだ。

私などは初登りなのだから、どちらかといえば「祭の雰囲気を味わい」「何年も登っている地元の人たちの様子を観察する」べきかなとも思ったが、しかし初登りだからこそ、ケンカに加わるつもりこそないけれど、この祭に頭から飲まれてみるべきではないか、と思った。

初めての参加でこの祭のこの祭たる所以も捉えていないのに、適当なところで観察する側に回ろうと距離を置くのは、それは祭に参加するのではなく見物しに来たのとなんら変らない態度ではなかろうか。それは祭に参加するということと、似て非なる態度であろう。

などと考えた挙げ句、街を練り歩くところから、地元の人に倣って掛け声を上げ、振舞い酒はできるだけ振舞われ、速玉大社から阿須賀神社へと回り、ようやく暗くなって神倉神社の石段の下に着いたときにはかなりいい感じに暖まっていた。まあ、もともとどちらかといえば頭に血の上りやすい性格ではあるし、テンションが上がり始めるとメーターが振り切れるまではあっという間だから、祭に飲まれるまでに血を沸かすのはそう難しいことではない。

そういう状態だから、ゴトビキ岩に続く538段の石段など、あっという間に登り切る。一応ケンカは避けたいので(これは地元の方に注意を受けていたので素直に受け止めた)、端っこのほうで火が届くのを待つが、これまたあっという間に方々でケンカが始まり、やはりあっという間にその渦に巻き込まれ、あっという間もなく眼鏡がどこかに弾け飛ぶ。

弾け飛んだ眼鏡を探してくれる友人や介錯(祭の世話人)の方々には、悪いと思って「買えば済むから!」と声をかけたのだが、その声のかけ方も、あとで友人の話を聞くとなんだかケンカ腰だったらしい。申し訳ないことをした。

気が付くと、自分の着ている白装束に火の手が上がったりする。足元も火の海だったりする。しかしそんなに慌てないで消す。実際、火傷はなかったが、極度の興奮状態だと、却って妙なところが冷静になるのか。

そしてそんな光景や体験は、映像としてでなく、いくつかの一枚絵の断片としてしか記憶されていない。酔いが回って記憶がなくなる、というのともまた違った、変な感じだ。

そんな状態で、ようやく石段を降り始める。そんなに駆け下りているつもりもないが、慣れない上に眼鏡がない所為もあるのだろう、二度転ぶ。二度めは右手の人差し指が逆向きに曲がり、折れたと思った。なんとか下まで降りてみると、右肩、右わき腹も打ったようで、左足の指の付け根も痛む(実は一週間経った今もまだ痛みは消えていない)。が、意外に冷静である。未だ興奮状態の中にはあったが、なぜかやはり、奇妙に冷静であった。そして冷静に、この祭の意味−石段を登って降りる意味−を掴んだような心持ちになった。

もっとも、言葉で説明するような理解はしていないのではあるが。達成感というわけでもないが達成した感じがし、充実感というわけでもないが充実はしている、妙ないい心持ちである。これまたどういう意味か自分でもわからないが、やっと振り出しに戻ったな、という気もした。

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その辺の人に、今度はケンカ腰ではなく礼儀正しく道を尋ねて、着替えをした新宮の商工会議所に戻る。同行の友人に救急病院を手配してもらい、今回行動を共にした地元の方にクルマで連れて行ってもらう。

人差し指が腫れて曲がりにくくはなっているが、骨は異常なし。保険証がなかったので2万円請求されるが、どうせあとで保険証のコピー送れば返金されるのだからと値切って1万円だけ支払い(まだ少しケンカ腰)、打ち上げ会場へ。2軒めで記憶がなくなる一歩手前まで呑んで、祭の夜はおしまいだ。

2軒めで、なんか地元の女性(私より十は上か)に、やけにしつこく絡まれたような記憶がある。私としては男だけで呑みたかったので、かなり邪険にしたようだ。申し訳ないとは思うが、男だけで呑みたかったのである。

▼2月7日(熊野最終日)

まあこの日は、飯喰って帰っただけである。

飯喰う前に、祭で燃やし損ねた松明と、ところどころ焼けた白装束、そして熊野古道であえなく靴底が落剥し足首のところも破れた古ブーツを、速玉大社に奉納する。

で、タクシーの運転手が教えてくれた新宮駅前の「十二社」で、さえずり(クジラの舌)喰ってバカになる。歯応えはあるのに、いつの間にか淡雪のように溶けてなくなる。馴染みではない女といい感じになって、お互い相手の出方を探っているうちに、女のほうがとつぜんすっ、と腰の辺りからこちらに溶けかかってくるときのような食感だった。夜中に何書いてんだ。それにしても美味でした。

そういえば、新宮の駅前で、昨日の餅屋に偶然出会う。非番なので散髪に来て、ついでに駅のお手洗いを借りにきたそうだ。その偶然に笑う。

餅屋がとつぜん「ウィスキーでも呑みませんか」というので昼間から呑めるボトルキープしているバーでもあるのかと思ったら、駅の売店で缶入りの水割りを買ってくれる。なぜビールではなくウィスキーなのだろう。でもビールよりももてなされたような気持ちにはなる。改札の前でしばし呑む。餅屋に「関東の人間はスカっとしてて好きなんだよね」と褒められる。わけがわからないが褒められて嬉しい。

帰りの車中では、同行の友人と最初はキャバクラの効用など大人っぽい話をしていたが、そのうちにヌーヴェル・ヴァーグについてなど学生がするような話に移行する。その辺やはり、学生の頃からの友人である。「気狂いピエロ」の、ボーリング場で数を数えるシーンが好きで、フランス語で数数えたくなったのが仏文に進むきっかけのひとつだったのだなあなどと思い出す。むろんそれだけではないが、今考えればつまらない理由で人生を棒に振ったものだ。

新宮から名古屋まで呑み続け、名古屋できしめん喰って、東京まで寝る。大変楽しい旅行でした。今年中に、また訪れそうな気はしている。多分行く。

熊野旅行記、完です。長かった。

▼付記1・新宮の秋刀魚

御燈祭の翌朝、同行の友人の部屋で、昨夜眼鏡を失った所為で部屋の中で度付きサングラスをかけて視界が暗いままぼーっと放心していると、祭りの際に大変世話になった西桐画伯がやってきて、秋刀魚の干物持って来たから皆で分けろや、と置いていった。そのとき、去年200ccのベスパで東北を回る旅をした、という話を聞いたような気もする。

で、その秋刀魚の干物を、帰りの車中で分けてもらって持ち帰り、今日(2月8日)二本焼いて喰ってみたが、なるほどそういえば、新宮の秋刀魚はいい具合に油が落ちて酒のアテにぴったりやで、という風なことを、確か画伯が言っていたことを思い出した。ワタも身も味が濃くて、酒にすごく合う。新宮の秋刀魚の干物、魚喰い酒呑みにはお薦めである。

いい感じで油が抜けた秋刀魚は、普通の秋刀魚の塩焼きのように箸でほぐすのではなく、頭と尾を両手で持って齧りつくのにちょうど良い。そして、この喰い方だと、二三尾は軽くOK。幸せだ。

冷蔵庫を開けて確認したら、まだ秋刀魚は八尾あった。旅は終わっても幸せが続くなあ。画伯に感謝である。今度いつか東京に来たときは、どうしてくれよう。

ま、もらった秋刀魚がうまかった、というだけの話で、別に落ちはありませんが、今回の旅行で当面の、次の週明けくらいまでの生活費をきれいに使い果たしたので、この秋刀魚はありがたい。この場を借りて謝意を述べておきたい次第でございます。

▼付記2・嵐寛寿郎

アラカンこと嵐寛寿郎が、「新日本珍道中・西日本の巻」(近江俊郎 、曲谷守平監督。1958年)という映画で、坊屋三郎に「アッ、明治天皇」と直立不動されるシーンがあるというのは知っていた。

映画は観ていないが、快楽亭ブラック師匠による「映画に見る東京ブラック喜劇(ユーモア)人事典」(筑摩書房「江戸前で笑いたい」所収)を読んでいたのである。

ところがそのアラカンが、「皇室と戦争とわが民族」(小森白監督。1960年)という映画でなんと!神武天皇を演じているということをひょんなことから知った。

相変わらず熊野のことを調べていて、帰りの日に乗ったタクシーの運転手に教えてもらった、神武天皇を熊野から大和に導いた熊野三党(宇井、鈴木、榎本)(註)の情報に当たっていたら、偶然知ったのである。いやあ大笑いした。どんな映画か皆目見当がつかないんだけど。

(註)八咫烏の三本足は、熊野本宮大社の主祭神である家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)の御神徳「智」「仁」「勇」の三徳という説や、「天」「地」「人」を表すという説のほかに、熊野三党を表しているという説もある。件のタクシーの運転手は、熊野三党説のみを教えてくれた次第。

ちなみに「皇室と戦争とわが民族」には宇津井健 、菅原文太、天知茂、三ツ矢歌子など、「新日本珍道中・西日本の巻」には高島忠夫、宇津井健、古川ロッパ、天知茂、三木のり平、柳家金語楼、由利徹、三ツ矢歌子、大空真弓などが出演。オールスター勢揃いだ。ちくしょう観てみたいなあ(DVDにはなっていないようだ)。

2007年02月03日

差別的語を含む標準和名の改名

日本魚類学会では、「メクラ、オシ、バカ、テナシ、アシナシ、セムシ、イザリ、セッパリ、ミツクチ」の9つの差別的語を含む魚類の標準和名について議論を重ね、その結果、1綱2目・亜目5科・亜科11属32種を含む51タクサ(分類単位)の標準和名を改名すべきであるとの結論に達したそうだ。

#ここまではほとんどそのまま日本魚類学会ホームページからのコピー&ペーストですすみません。

で、魚類関係者はほんの今まで「メクラ」だとか「セムシ」だとか「イザリ」という言葉を(まあ多分差別意識はないのだろうが)日常的に使っていたのか、というところが味わい深いのだが(「イザリ君」とか呼んでた事例もあるようだ)、今回改名される魚の名前を眺めていると、

オシザメ(寡黙な海の殺し屋?)
ロケットイザリウオ(ロケットというのがなんとも)
バカジャコ(差別というより可愛い感じがするが)
テナシゲンゲ(ウデゲルゲみたい)
セムシダルマカレイ(セムシダルマって何だ?)

など、捨てるに忍びない語感の名前も散見されたので、ここに紹介しておきたい。

参考URL)
http://www.fish-isj.jp/info/j070201.html
http://www.fish-isj.jp/info/j070201_a.html

「アホウドリ」なども、そのうち名前変えるのかな?

2007年02月02日

松田美緒 in 六本木スーパーデラックス

先日のプラッサ・オンゼに続いて二回目で、前回も楽しめたが、今日は文句なく、前回よりも楽しめた。プラッサ・オンゼのときは、今思えば主役のたくさんいるイベントだったが、今回はアルバム「ピタンガ!」の発売記念のワンマンライブ。そんな理由もあったのかもしれない。

ステージはもちろん「ピタンガ!」からのナンバーが中心で、ほとんどがポルトガル語の歌だが、ときどき日本語の歌、日本語まじりの歌や、演奏を背景にしたポルトガル語の詩の日本語訳の朗読などがあって、それがやけに素晴らしい。特に今日2月2日は、アフロ・ブラジルの信仰の中で大切にされて来たという海の女神イエマンジャーの日ということで、ステージ全体のテーマが明確だったことも、松田美緒の歌うことが強く響いて来た理由と思う。腕利きのギター3人とパーカッションのバックのアンサンブルもよかった。

ちなみにアルバムタイトルの「ピタンガ」とは、ブラジル原産の常緑樹の果実のことで(別名ブラジリアン・チェリー)、食用になるのだが、今日はそのピタンガを使った真っ赤なカイピリーニャが特別に振る舞われていて、結構うまかった。

ライブのあと、せっかくなのでCDを買ったらご本人がそこにいたので、サインをもらうついでに「ピタンガは東京で買えるの?」と尋ねてみたところ、普通には入って来ないとの由(まだちゃんと調べてないが、沖縄では栽培されているようだ)。そんなところも、松田美緒が今夜歌い始める前にいった「今日は特別な夜にしてください」の「特別な夜」的な要素として働いたと思う。普段、よくライブ会場で振る舞われる「ミュージシャン発案のカクテル」みたいなものには、あまり心動かされないんだけど。

松田美緒はこれからしばらくブラジルに渡り、日本でライブをやるのは夏から秋口くらいといってたが、そのときはまた観たいなあ。あと今日一緒だった友人によれば、今日のイエマンジャーの日はリオのカーニバルの少し前なので渡航費も安いそうだから、来年の今頃ブラジルに行くことも、ちょっと真剣に考えた。今年はちゃんと貯金というものをしてみようかなあ。

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